報恩寺のご案内

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室町の時代より・・・

 
室町時代:応永2年(1395年)宥譽上人の開創と伝えられており、下寺であった堤台地蔵尊の本尊の台座にその年代が彫られていることがその根拠になっておりますが、本寺である報恩寺の開創はさらに古い時代まで遡ると考えられます。(現在調査中)
 報恩寺は、もともと野田市堤台にあって堤台八幡神社の別当として、江戸時代には末寺34カ寺を有する本寺として、徳川幕府より御朱印状五石を拝領しておりました。現在その御朱印状五枚は千葉県文書館に所蔵されております。
 しかし、幕末嘉永年間に雷火により諸堂伽藍悉く焼失し、再興の動きもあったようですが、明治維新の廃仏毀釈の嵐の中で、明治3年、寺領であった現在の地に移されたようです。
 山号も変遷しており、堤台時代は「八幡山 薬師院 報恩寺」、明治時代に現在の地に移されてからは、地名から「西高野山 報恩寺」、現在は新四国八十八箇所霊場を奉安し、弘法大師を本尊としていることから「大師山報恩寺」(だいしやまほうおんじ)と呼ばれております。
 

一ツ木村の仏様

十一面観音物語・・・

報恩寺の十一面観音様は元々は江戸時代に起こった廃仏毀釈令により「赤坂氷川神社」より、当時の報恩寺・氷川神社同士が協力してそのご神体をお護りするために移設された仏様です。

伝説の十一面観音・・・

天暦5年(951年)東国を遊行していた蓮林僧正が一ツ木村(現在の赤坂4丁目付近)で一夜を明かすと夢中で御祭神のお告げがあり、ある場所を掘るとそこに十一面観音様が現れ、その地にお堂を建てお祀りをしたことにはじまります。これより凡そ100年後の治暦2年(1066年)の夏、関東一円に大きな旱魃(かんばつ)があり、苦しむ村人たちが社に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りはじめ、その雨量は川ができるほどであったようです。以来よく神事が執り行われるようになります。